グッドバイ

今日は午後9時よりTBSで放映される『太宰治物語』を見る為、本棚から太宰治著『グッドバイ』を再読。


中学生の頃に買ったグッドバイ、あの頃はなにが面白いのかまったく分からなかったが、今読み返すとすごいエンターテイメント作品。表題にもなっているグッドバイが未完なのが本当に悔やまれる。そんな悔しい気持ちを持ちながら、しばし休憩を取っていると携帯が鳴った。ディスプレイには友人の名前――。取ってみると、なんてことは無い、食事の誘いだったが今の自分は一銭の金が無い事を告げ断りを入れた。


雨が止みかけてきたため、家にいるのも気が引けてコンビ二に雑誌を読みに向かった。
私は本当は書店に行って読みたかった。コンビ二に立ち読みに行くだけはどうしても良心が痛む。いつもはいくばくかの金のある為、読み終えると別段欲しくも無いジュースやガム、菓子を買い、「私はコンビニにだだ読みに来ただけではない。金を持ち買い物に来たのだ」と心で言いながら会計を済ます。別に店員にすれば私が立ち読みして何も買わず帰ろうが、なんの損害を受けない、そして店員は歩合い制ではないから私が買おうが買わまいがどうでもいいことなのだ。でも、何も買わないで自分の利益(雑誌を読むこと)を行うのはなんだか万引きをしているようで気が引けた。小さな店で自分と店員の二人だけになると心臓がバクバクと大きく音を立てたものだ。そのためにも、書店のような大きな店舗に行きたかった。あのような所なら私のような一介の客まで店員は気にしないだろう。書店とは立ち読みをするような所であるから。立ち読み客という森の中に隠れて立ち読みしようと浅はかな考えを持っていた。それも、金欠と節約という文字が頭に浮かぶと書店までの5キロ原付を動かすことを躊躇わせた。
しかたなく、金の入ってない財布を懐に入れると徒歩でコンビニに向かった。
雨上がりの歩道は湿度が高く、歩いているだけでもなんだかムシムシして不快感がした。
何日ぶりの外だろう。この所雨ばかりで外に出ることがなかった。いや、外に出ない理由にこの雨を利用していただけだ。
空は薄ねずみ色の空、本当にこの雲の向こうに青空があるのだろうか?本当に雲の上に太陽や月、星、宇宙が存在するのだろうか?根拠も理由も無い不安が襲った。
中国の故事で杞憂という言葉がある。中国の杞の国の人が、天地が崩れて落ちるのを憂えたという故事に基づき、将来のことについてあれこれと無用の心配をすること。杞人の憂い。取り越し苦労の事を言うが、私の考えも中国の杞の国の人の考えと同じだ。でも、そんな事を考えてしまった。
空はあると思う、その思いだけあればいいはずだ。


コンビニに申し訳なさそうに入るとサラリーマンの横に立ち、一通りの雑誌に目を通した。入ってきた時は客がまったくいなかったが、読み終えた30分後には客で賑わっていた。私は店を出る家族連れに混じりながら店を後にした。
帰り道、またトボトボと歩いていると、足に痛みを感じた。痛い、どうやらあまりにも家を出なかったせいと、運動不足がたたり、膝の関節を痛めたようだ。私は雨がまた降るかと思い家を出るときに持ち出した水色の傘を杖代わりにして足を引きずりながら歩いた。大きな国道の歩道を歩く、別に見たかったわけではないが横を走る自動車に目を向けると、私の横を通り過ぎる車の乗客が見えた。祝日の為か乗用車が多い。みんな笑顔でどこかに向かっている。顔は笑っているのに、車はすごいスピードで通り過ぎる。なにを急ぐのだろう?
またこの感覚だ。世界から切り分けられたような疎外感。ココにいるのにTV画面を見てるような現実感の無さ。
私は車道から目を背け、目を伏せるとと道端に転がる紙コップが見えた。
怒りは無い、悲しみも無い、空しさも、孤独も、だた虚脱感のみが私を取り巻く。
私はその罪の無い紙コップを思いっきり蹴飛ばした。
足の痛みで思うようには蹴れなかったが、紙コップは私の2メートル辺りにころころ転がりながら止まった。
紙コップの中から、口を縛ったピンク色の使用済みコンドームが出てきた。
――なんだ、なんだこれ?どうゆうシステムなんだ?
足を引きずりながら私は家に戻った。


グッド・バイ (新潮文庫)

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