涼宮ハルヒの憂鬱

まぁさ、俺ってバカじゃん。だからさ、本の感想なんてそれは読売新聞の日曜に掲載されるブックレビューに比べたら稚拙なもんだよ。って、別に自分を卑下して感想書くことは無いんだけど。読んだよ。女にモテるために流行に食いついたさ。大ヒット中の『涼宮ハルヒの憂鬱』をさ。あらすじは過日のブログにて書いたから省略するとして。いやぁ、俺って本当に流行りに乗れないって気付いたわ。西尾維新を読んでいた時に、「あれ?俺って常人と感覚違うなぁ。もしかして異能者なんじゃなかろうか。自覚はしていないけど超能力者や宇宙人、未来人なんじゃなかろうかなぁ」と思い、「デスノート」の映画になんの食いつきも見せなければ、「NANA」も見ていないし見る気もしない。レオンやニキータも読んでなければ、最近じゃ「ワンピース」にも付いていけず 、「ギャルサー」も一回も見ぬまま終わりを迎え、「タイヨウノウタ」なんてドラマ版のキャスティングを見て、おいおいおい山田さんはまた高校生役かよ。いい加減辞めたらどうだい? とテレビに突っ込み入れちゃったし。
おっと、脱線。
とにかく、本の感想。
思えば23年間に於いて初のライトノベルらしいライトノベルを読書したわけなんだが、なんというかリアルがない小説でした。目の前に一切モテる要素の無いニキビ面の高校生が目の前に現れて「あの〜僕、小説書いてみたんですけど読んでもらえませんか?」と言われて渋々読んでみた感じかな。この作者谷川流がどんな人かは知らないしから俺の憶測でモノを言うけど。読み終わった感じは「あぁ、君って自分が特殊な存在だと思っているでしょ。今いる現状に満足していなくて、俺はもっと崇高に扱われるべき存在だ。とかそんなアホな考え持っているでしょ。透けて見えるよ、君の薄さが」と罵ってしまうかな。でも、そんな言葉が出そうになる作品だった。読後に作者が何が言いたいのか分からん。「異能者は素晴らしい」という結果に結び付けたいのか、男女の恋とジレンマを描きたいのか、お前の高校生時代に叶わなかった願いを具現化させたかったのか、第二弾に続けるために全ての結果を有耶無耶にしたかったのか、分からん。でも、もしこの作品を読み、現代の中高生が「俺も特殊能力があればなぁ。又はハルヒみたいな女がいたらなぁ」なんて抜かすようだったら、世界は綺麗に終末を迎えていいと思う。確かに今の漫画やアニメに於いて「特殊能力者同士のバトル」というジャンルは確立されているし、俺もジョジョとか好きだから存在に文句は言わないけど、一概に特殊能力を求める事が良しするのはどうだろう。超能力や霊能力的特殊能力を俺は信じていないけど、現実世界にだって漫画やアニメとは意味が違うかもしれないが特殊能力は存在する。それは名を変えれば「才能」という言葉に変るかも知れないが、絵が上手かったり計算が速かったり金メダル取ったり蹴球で世界一になったりする事も通常の人には中々出来ないので特殊能力者とも呼べる。いや、才能だけでそこまで到達したわけではなく努力の賜物とも言えるけどね。それを見て、俺もこうなりたいぜ。と夢を見る事はいいだろう。しかし、夢見るだけでは夢に向かって前進は出来ず、現実世界の時の流れは急で前進しない者には現状維持が起きる事は少なく大体後退してしまう。成りたいな。と願うだけでどんどん成れなくなるのであって。つまりは、特殊能力者を称えるのではなく、凡人にも一つの事を数十年休まずにやり遂げる尊さがあるんじゃねぇーのか。つまりはお前の親父が毎日毎朝行きたくもない会社に行き真面目に仕事に勤めるその姿を、親父ダセェーー。俺絶対に将来、サラリーマンとか成らないからな、と大口叩く暇があったら感謝の一言でも言ってやれ。っていいたい訳さ。
また話が脱線したけど、とにかく俺がこの本に関して言いたいことは、ちょっと俺には趣味が合わない本だったって事と、先日辺りに「きっとヒロインは過去に両親から虐待を受けたりしていた」と書いたが、昨日読んだガンガンパワードに掲載されている「ひぐらしのなく頃に」のヒロインが正しくそんな感じ(正確には微妙に違うが)で、俺は共時性を感じたって事さ。鬱展開のヒロインって今の俺の中では流行。

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)