小松響子aka.トランポリンガール4


夏が過ぎ、秋が走り去って、冬が来たと思ったらまた春になった。
私は、ファミレスでママと逢ったその日から一度も跳んでいない。お正月に電線に凧が引っかかっていても、ジャンプして取らず、電力会社に連絡している。
跳ばずに何をしていたかといえば、受験勉強で来る日も来る日も机に向かっていた。右手の中指の第一関節がペンの持ちすぎで少し曲がっている。幼馴染の彼曰く、ペンを持ちすぎるとペンダコかこのように関節が曲がるらしい。


その血の滲むような努力は冬の終わりに見事芽を咲かし、私は晴れて大学生となった。もちろん、ママが危惧していたような五流大学ではなく、県内では一番と呼ばれている大学に。
跳ばなくなって、何が不便かといえば移動手段だった。昔ならちょっと力を入れてジャンプすれば済む事が出来なくなり、私は大学入学直前に車の免許を取った。
中古の赤いヴィッツを買った。TVに出ていた時に貯蓄していたお金は底を付いた。
一年以上跳んでいないのに、私の家には久保井さんがいた。跳ばない私を何故監視し続けるのか不思議だ。もしかしたら自分がいなくなったらまた私が跳び始めると思っているのだろうか? 
久保井さんは空き部屋を自分の書斎として使い私に関する報告書や雑務をこなしてる。
日常は変わらない久保井さんだが日が落ちると豹変した。辺りに闇が降ると久保井さんは書斎から出ると夕飯を作る私にぼやき始めるのだった。顔面蒼白の久保井さんはぐったりと疲れた体で俯き加減に言う。
「やっぱりこれじゃダメなのよ」
「な、何が?」
私は長ネギを切りながら顔を合わせずに答えた。
「こんな筈じゃなかった。こんな片田舎で私の人生終っちゃう、お父さんはきっと悲しむだろうな。兄さんにまた馬鹿にされる。終わり終わり終わり終わり終わり終わり終わり終わり終わり終わり終わり終わり…………」
最近はいつもこうなのだ。夜になるとゾンビが墓から目覚め地上を闊歩するように、満月を見て狼男が獣人となるように、久保井さんは夜になると自暴自棄に陥ってしまう。自傷一歩手前まで自分を蔑み罵る。
私はいつもそんな久保井さんを見るのが辛い。最初の頃は励まそうと努力したが何を言っても上の空で、下手に無責任な事を言おうものなら逆ギレされた。私は疲れてしまった。だから、毎晩行われるこの奇行を流すことにした。全て聞き流す。右耳から左耳に受け流す。「ふ〜ん」とか「はいはい」と言った感じに。
話の内容を記憶せずに適当に相槌を打っていると久保井さんの声が止まった。
私は、あれ? っと思って後ろを振り向くとさっきまで座っていた席から消えていた。満足してどこか言ったのだと思い長ネギの切断を再開しようと包丁をまな板に戻した時だった。二本の長ネギの下に肌色の棒がある。
私はそれが何かすぐ判り包丁を止めた。先端に伸びきった爪が生える細長い指。もし包丁を確認せずに振り下ろしていたら。背筋から汗が溢れた。
「ねぇ、切ってよ」
耳元に荒い息とか細い声が届く。
咄嗟に声のする背後に振り向くと久保井さんが密着するように立っていた。
「久保井さん?」
「償いたいの。こんな恥の多い人生を辿っているんですもの。みんなに家族に謝りたいの」久保井さんは救いを求める顔で歯をカタカタ鳴らして私に言った。
イカれてる。
私は手に持っていた包丁を流しに放り投げると久保井さんを突き飛ばし自室に篭った。毛布で体を包みお父さんが早く帰って来る事だけを願った。


あの事から何分経ったか判らない。車のエンジン音と砂利を踏み締める音が庭先ですると私はやっと安心できた。お父さんが帰ってきた。
恐る恐る部屋から出ると、お父さんとお父さんの腕に抱きつく久保井さんがいた。久保井さんはさっきとは打って変わって上機嫌の顔をしている。まるでさっきの出来事が夢だと勘違いしてしまうそうになる。いや、きっと私の勘違いだ。
私はお父さんに「おかえりぃ」とさっきの事を払拭するように元気良く向かえた。
「響子、腹減ったから飯にするか」
お父さんは腹部を押さえて苦言交じりに言った。
「そうね、私も今日は何だか凄くお腹が空くのよね、響子ちゃん準備出来てる?」
久保井さんもさっきの事が嘘のように明るい。
私は気を取り戻し台所に戻る。そうだ、ネギを切っている途中だった。確か流しに…………。



流しが赤く染まっていた。
確かに私は料理を作っていたが、今日はお味噌汁と煮魚、お新香。煮魚の魚肉だって血抜きされているスーパーで買った物だ。血が出る食材なんて調理していない。
なら、なんで此処が赤く染まっているの?
「おい、響子まだ?」
黙って突っ立っている私に着替えを終えたお父さんが急かすように言った。その言葉が私にかかっていた金縛りを解き、私は誰にもばれまいと蛇口を目一杯捻った。血液と思われる赤い液体は流水と混じり濃度を下げ排水口へと吸い込まれるように流れていった


もちろん、食事中は話題に出すことは無かった。食事中に話す内容にはそぐわないし、何より躊躇したのは久保井さんの小指に大き目の絆創膏が巻かれ着慣れた黄緑色のカーディガンの裾が赤く染まっていたのを見てしまったからだ。
お父さんだけにでも話そうと、その晩お父さんが独りになる瞬間を狙っていたが、久保井さんは終始お父さんのそばにおり、とうとうこの晩は話すことは出来なかった。
布団に入り今晩の事を思い出し私なりに解釈するとこうなった。
久保井さんはお父さんを愛してる、きっと狂気的に。
そして自分を憎んでいる、それも狂気的に。
自分を赦してくれて全肯定してくれるお父さんを好きになるのは自由だ。
でも、そんな久保井さんは私をどう思ってくれるのだろう。
狂気的に愛してる? それとも憎んでる?