ダークナイトライジング

正直、二度視聴していろんな映画雑誌のレビューを読んだけど。自分の中で上手く消化されていないのでこの感想は実に不甲斐ない出来となっている。






感想(ネタバレ有)

劇中、塞ぎこむブルースに執事のアルフレッドは囁く。
「あの人はもういないんですよ」


この場面は私にとっての最大の衝撃であり悲劇的なシーンであった。
ルフレッドが指す「あの人」とは、前後の流れから「レイチェル」か「ハービー」だろうが。
言葉を深く深く探れば、バットマンに「もうジョーカーはいないんですよ」とメタ展開的に言っている思えて泣けた。



ダークナイトに於いてヒースレジャーが演じたジョーカーの圧倒的な狂人っぷりには心を鷲づかみにされた。ジャック・ニコルソンのジョーカーのひょうきんぷりも良いのだが、ヒースレジャーの演技には、ジョーカーを象徴する混沌が含まれていた。
ダークナイトライジングに対して、「ダークナイトを越える何かが観れる作品」だと過度に期待した。ヒースレジャー亡きダークナイトでベインはジョーカーとは違うなんらかの魅力を持った存在なのだろうと思っていた。
しかし、蓋を開けてみれば、ベインはただの怪力な悪役だった。悪ではなく悪を演じる役者だった。
ベインが市民に対して革命を唱える球場のシーン。
「名も無き市民が核爆弾のスイッチを持っている。何かあればそいつがボタンを押すから俺たち市民は自由だ」
どう読んでも、ボタンを押されればゴッサム市民が死滅するのだからそれは自由ではなく「スイッチを持っている人間を知るベイン様に従え」という脅迫であったし、その後、市民が金持ち宅を襲撃したり、デント法は違法だという理由で刑務所を開放して市民軍を作り出したりと革命というより秩序の崩壊であった。
融合炉から取り外された核爆弾は5ヵ月後に爆発する事は決まっていたので革命は嘘でゴッサムの消滅だけが目的だったのだろうが。
ベインが破滅願望者で街ごと心中したかったのであれば、それはそれはとてもイカれていて面白いのだけど、話が進めば、好きな女の命令に従っていただけ。その女も何か大きな事を企んでいたのかと思ったら、ブルースに復讐したかっただけ。
矮小な目的の悪だった。
そもそもバットマンに出てくる悪役の癖にゴッサムを崩壊させる事は納得できても、核爆弾で消し去ろうとする事が気に入らない。ゴッサムってのは、バットマンヴィランが捕り物劇を延々と繰り返す遊び場なのだ。
遊び場を消そうと考えるなんて下の下である。


そして、「ヒーローとは誰か?」というのがアメコミの根源的なテーマである。
主人公がヒーローなのは当たり前だが、大きな世界でヒーローは個人の力の限界を感じて、ヒーローとは世界を良くしようとする名も無き市民だと理解する事が一つのテンプレであり真理なのだ。
武力でも財力でもなく権力でもなく、正しい事を行おうとする人間こそがヒーローであると。
それは先日のアメイジングスパイダーマンのクレーン技師であったり、前作の豪華客船で爆破スイッチを捨てた死刑囚であったりもした。
崩壊したゴッサムでのヒーローとは誰か。
それは警察官だけではないはずだ。ベイン率いる市民軍に対して何故警察官のみで反撃したのだろうか。
敵はタンブラーを乗り回し銃器で武装している、確かに市民では足手まといになってしまうのかもしれない。しかし、敵が圧倒的だからこそ無力な市民の反撃というのが絵になるし説得力を増すというのに。
ビルの上からの罵倒でも、子供の投石でも、真のヒーローの所在を明らかにしてほしかった。



総括。
この作品を「アメコミ原作映画を越えた」と誰かが言っていたが、これはアメコミ映画じゃないから当たり前であり筋違いなのだ。ダークナイトはアメコミ映画だったが、今作はアメコミ映画としては酷く不十分だった。
上映時間が3時間もあるのに、随分説明不足な点があるし、ダークナイトの続きというよりもバットマンビギニングの続きのように思えた。ダークナイトで残した問題の回収とビギニングの残っていたネタを混ぜたような。
クリストファー・ノーランバットマンに不満を覚える原作ファンがいる事はしていたが、今回は俺も原作ファンの方に座るわ。


言い訳っぽくなるが、
決して、つまらない映画ではない。
3時間を飽きさせることなくスリリングに話は進むし、バットマン(ブルース)の挫折からの復活も良かった。
良かったが、一歩踏み込めていない。踏み込めていないのにアメコミ原作映画としては頭一つ出ているから歯がゆいのだ。


余談、
311以降、原発や核関連の話題を最終兵器として持ってくる映画を観ると、酷く皮肉めいて見えてしまってダメだ。
製作者の意図としての皮肉ではなく、現実との対比での皮肉として。