素晴らしい世界(真心ブラザーズ)

ブログ32回目

『奇行』
僕はよく夜になると意味も無く出歩く癖があった。夜9時〜11時、両親に「コンビニ行ってくる。」なんて嘘をついてトボトボ道を歩く。田舎町のせいか騒音の無い夜はトボトボ歩くには最適だった。ずいぶん前からこんな奇行を始めたため最初はあったはずの行動動機が今では全く忘れてしまい単にあてもなくとぼとぼと歩く癖に成り下がってしまっていた。それでも、自分なりの楽しみがそこにはあったので始めた理由なんてどうでもよかったのだが、最近ふと押入れを整理していたら、中学生時代の文集を見つけることが出来た。紫色の画用紙を扉にしてその下に藁半紙が何十枚も右端を大き目のクリップで止められているだけの粗悪なつくりの文集だった。表紙には「○○中学1年6組」と当時クラスで一番イラストが上手いとされていた子が描いたと見られるグラフティのような文字と誰だか分からない人物画が描かれていた。埃っぽいその文集をめくり当時の自分が書いたと見られる作文を探すと汚い文字で「夢」とタイトルがつけられた作文を見つけた。
『最近、ぼくは変な夢をみました。くらい道をすすんでいたら家がいっぱいあってみんな笑っていました。まどからみえたみんなのえがおをみたらさびしかったです。(以下略)』
そんな出だしで始まり、最近見た夢について原稿用紙一枚程度に書かれた文に僕はハッとしました。
そこに書かれていた夢の内容を思い出したからです。
中学1年の僕は、ある日とても怖い夢をみました。お化けとか怪物とか大量の昆虫とかそうゆう怖さではなく、なんと言うか精神的にきた夢でした。
その夢は、僕が近所に流れる利根川から家に帰るまでの夢でした。
星空の無い民家の灯りしかない暗い夜道を僕は一人トボトボ歩いていました。川にいる時は川のせせらぎの音すらない無音の世界で僕はこの世界に一人きりのような錯覚すら感じる恐怖と孤独感を感じました。しかし、少し歩き町中に入るにつれ民家から聞こえる話し声やTVの音、食器を洗う水の音などがして他者を感じる生活音は僕に勇気を齎し、自然と家に帰る足取りが速くなったように覚えています。現実世界の我が家は道路から少しはいった所に面していて、道路からでは中の様子がわからない立地になっているのですが、夢の中の我が家は道路のすぐ横に家が建っていて道路と家の間にはブロック塀で区切りをつけられていました。僕はなぜだかその時、ブロック塀よじ登って家の中に入ろうと考え、1メートル50センチの高さのブロック塀に思いっきりジュンプするとよじ登りました。
僕はよじ登った先に見えた光景に言葉を失いました。
ブロック塀の向こう側には、大きな窓があり家族や親戚が集まってみんな嬉しそうな顔をして宴会をしていました。部屋の中心のテーブルには大きなバースディケーキが置かれ、みんな本当に楽しそうに幸せそうに笑いあってはお酒やジュースを呑んでいました。
僕はそんな光景をブロック塀に据わり眺めていたら、振り払ってはずの孤独感がぶり返し、『僕なんかいなくても世界はみんな幸せそうにしているんだ。』と感じ、僕はブロック塀から道路に飛び降りるとテクテク歩き出した所で、夢が覚めました。

たぶん、この夢が今の奇行を生んだものと思われるわけです。当時の自分はあの夢に仲間はずれにされた悔しさとか寂しさとかを感じていたようですが今の僕は、なんと言うか・・・ねぇ、救い様の無いダメさが世界に必要性を見出せない自分みたいで・・・。はぁ、凹む。

この夢をについて小一時間考えていたり、部屋の本を漁ってみたりすると案外多くの人がこんな体験の夢を見ていることに気付きました。
まず、太宰治
『太宰は暗い夜の海を一人で泳いでおり・・・岸の方へ向かって、必死に助かろうと近づく、すると岸辺に灯台の光が見えそれを目標にけんめいに泳ぎ、やっとその灯台にたどりつく。灯台の下には灯台守の家があり、灯台守の家の中を窓からそっと覗くと・・・家族団欒のひと時であった。それを見た太宰は「あぁ、自分はダメだ」と思うのであった。自分はどうしてもそのような雰囲気になじめない人間。見捨てられるべき人間だと気付き、行く当ても無くそっとその灯台を離れたという。(太宰が見たと言われる夢から)』
引用、町田静夫著「ボーダーラインの心の病理―自己不確実に悩む人々―」

  滝沢麻耶著「リンガフランカ
リンガフランカ (アフタヌーンKC)

リンガフランカ (アフタヌーンKC)

次に、たまたま部屋にあった短編集の漫画から一つ。
日本橋ヨヲコ著『バシズムより、「CORE」』

バシズム 日本橋ヨヲコ短扁集 (KCデラックス ヤングマガジン)

バシズム 日本橋ヨヲコ短扁集 (KCデラックス ヤングマガジン)

『主人公の山田(女性、高校生)はある日夢を見ました。暗い海で必死に陸地を探して泳いでいると遠くで灯台があると気付きます。しめたと思い岸までたどりついて灯台に近づくとその灯台には大きな窓があってその明かりの元を覗くと、中にはクラスのみんなが楽しそうに騒いでいました。その光景を見た山田は、彼らがなんだかとてもなつかしくてうらやましいものに見えたけど、それと同時に一番遠くてなじめなくて軽蔑するものだと感じました。』

まぁ、後者漫画だし、太宰の話を元に作られたフィクションかもしれませんが(そんな事思ったら太宰だって本当に見た夢かは分かりませんが)どちらも共通して存在するのは夢、灯台、暗い海、灯台の下には団欒。となっています。
違いは、太宰は団欒を見たときに、今の自分と比較して自己を下げてみていますが、COREの方は団欒部分を『軽蔑』つまり向こうが低いとしています。だが、どちらもその後灯台に入ろうとせずにその場に立ち止まっていたりその場を去っていたりと、団体に属する事への恐怖が現れているところが印象的です。
コレは私、個人の見解ですけど、この両者はお互いに誰かと繋がりたい欲求があるにもかかわらず、他者に絶対的な個人意識を押し付けている為に理想と現実の差にギャップを感じ、自分の理想または相手の理想から自分が少しでもずれてしまった時に自分は相手に見捨てられると言った脅迫概念があるのではいでしょうか?そのため他者との繋がりに恐怖して個人意識のみで生きようとする。しかし、繋がりたい欲求は押えられない。葛藤です。

最後にもし、コレを読んで、「私も同じような夢見た事ある。」とか、「こんな気持ちわかるわぁ」なんてなったら、もしかしたらあなたはボーダレス(境界性人格障害)かもしれません。

≪注意≫ 素人の意見なんで本当に聞き流してもらえれば嬉しいです。


・・・・・って、俺、ボーダレスじゃん!!!!

じゃ、また。(長文書くと疲れる)