叔父が教えた生の再確認

親戚の叔父の葬式に行ってきました。人生三度目の葬式参加。確か一度目は曾祖母で、二度目は小学三年生の時に事故で亡くなったクラスメイトだった。
葬儀を行なったちょっと大き目の葬儀場に行った所、今日のスケジュールみたいな看板があり、(『佐藤様七回忌』『山田様通夜』みたいなもの)それを何の気なしに見たらまず一番上に叔父の葬儀が書かれていて、目を下にスクロールした所そこには元カノと同じ名字の人の七回忌の文字が!!どうしよう?結局昨日電話しなかったけどここでもし出逢ったら運命的じゃん。と内心ウキウキドキドキしてしまいましたが、まぁ元カノの名字なんて一般的な名字なのでたぶん違う。と自分自身に突っ込みを入れて葬儀会場に。平均的な葬儀に参加する人数なんて今日三度目の俺は分からんけど、俺の事前の予想じゃ50人くらいだと踏んでいたが、その三倍近くの人数が集まっておりました。席に座り坊主のお経を聞きながら、叔父との思い出なんて今さっと思い出せないけどこんなに多くの人数が集まってくれる叔父は生前偉い人だったのだなぁ。としみじみ実感。そして、シャ乱Q「俺が死んだら何人くらいの人が来るのだろう」的歌詞を思い出し(曲名忘れた)あぁ、俺の葬儀って何人くらいの人が集まるのかな?アイツは来るだろうな。アイツも来るな。アイツは絶対に来ない!!なんて友人の値踏みをしていました。友人が少ない俺は早々と値踏み終わり、その後「人間死んだら、煙か土か食い物なんだよなぁ」なんて舞城王太郎の『煙か土か、食い物』のセリフを脳内で何度もループさせては人間の儚さを憐れんでちょい悲しくなり、坊主の念仏の後に叔父の孫がお別れの言葉を祭壇に向けて喋ったんだけど(内容は今思えば在り来たりのおざなりの内容だった)その場のムードか叔父の霊の力か涙が溢れてきて我慢したら鼻水が出てどうしようもなくなってしまった。
葬儀も滞りなく終わり、斎場に移動。
そこで叔父の遺体が燃え煙突から出る叔父の煙を映画のワンシーンのように感慨深く見ようと思ったら、母から「最近の斎場じゃ、煙突から煙出ないのよ」と俺の願望を打ち砕く言葉が!!おかぁちゃん、それをいっちゃあおしまいよ。しかし、斎場とは不思議なもので今日のピーカン照りの真夏のような天気でも斎場の中は足元にツーンと冷たい空気が充満していた。(エアコンの冷房とは違う有機質的な冷気)叔父を火にくべ(何だが感動も何も無い表現だな)待合室にて軽食を戴き1時間30分後、白骨化してボロボロの叔父登場。何度も泣き濡れる叔父の家族を尻目に箸で骨壷に入れ終わり斎場を出た時、フランツ・カフカの「何故、人間は血の詰まったただの袋ではないのだろうか?」と、TWINの竹中薫の「人間突き詰めると製糞尿機だわな」の言葉を思い出し、ちゃうで、人間の中には骨があるやん、そんで糞尿作るよりも死んだ後にさえも親しい家族や兄弟に生きる大切さを教えてくれてるやん。と心の中で思う。葬儀場に戻った後もお清めの飯を食いながら、人間死んだら『煙か土か、食い物』だけじゃない。もっとなんちゅーか大事なもんを多くの人に教えて、そんで多くの人の心の中に思い出として残るんだなぁ。と俺の中の生の大切さを再確認。誰かの死によって自分や周りの人たちのの生のありがたみを知るなんてなんだが叔父がそれを感じさせる為の生贄に思えてちょっと泣けてきた。家に帰り、ペルソナ3をプレイしたら、とある女子が「私なんて死んでもいいのよ」と人生を捨て鉢にしたようなセリフを少年に言うシーンがあり、その時少年が「俺はお前が死んだらヤダ!だから死ぬな!!」と力強く説得する言葉にまた涙が溢れてきた。そうだ、どんなに心理学のテクニカルタームを重ねた言葉を言うよりも崩すことの無い論理で少女を打ち負かすよりも、ただ「お前が死んだらヤダ」という一見ただの我儘のような言葉が大事なんだよな。己の我儘でも誰かを生かしたいという気持ちに勝てる言葉はないんだろうな。とまたいつものアホな深読みで涙。その後、その死にたがり少女に心引かれて、その少女を必死に元気付けようとする少年に心からエールを送る。
あぁ、誰も死んでほしくないなぁ。でも、諸行無常でみんないつか死んじゃうんだよなぁ。嫌だなぁ。
せめて事故や病気にならんと天命をまっとう出来る事をこのブログを読んでくださるあなたと、数少ない友人と家族と親類と俺を知る全ての人を願ってがっしょーーーう。後、ついでに俺を憎む人にも♪