君島直樹は戦慄 3


僕はゆっくり立ち上がると玄関に向かって歩みを始めた。
こころなしか、右手に握る包丁が重い。
扉の中央に埋め込まれた覗き穴を恐る恐る覗くと、扉の前に立っているのが、連続殺人鬼でもなければ金色の鬣を持つねこ科の動物ライオンでもなく、人間の阿倍ゆかりだと分かった。
「何しに来たん?」
僕は扉に鍵が掛かっている事を確認するとノブに手をかけず扉に向かって喋る。
「何しにって、直くんが電話しても出てくれないから気になって。ねぇ、直くん大丈夫だよ」
ゆかりは、何を根拠に「大丈夫だよ」と発したのか僕には分からなかった。もっと言えば、ゆかりの発言が逆に僕に恐怖をかき立てた。
「あぁ、俺は大丈夫だ。それより外は雪が降っているだろ?寒いようだからとっとと帰れ」
僕はロボットのように言葉に強弱を付けず淡々と言った。僕の発言の後を追うように扉の向こうから男の怒声がした。聞き覚えがあるあいつだ
「何が帰れだ。なんだ、ゆかりちゃんが心配しているのにとっとと帰れだ?お前、ふざけんなよ」
ドンドンと扉に衝撃が走る。
「うるせぇーよ。お前には関係ないだろ。お前こそとっとと帰れってんだよ。無関係者は去れ」
「帰れるっかてんだよ。ちったぁ、顔ぐらい見せろや」
「嫌だってんだよ。俺は大丈夫だって言ってんだから。お前ら心配とかすんなよ」
「あん?」
あいつはそう言うと黙り、その後、ダダダダダッと階段を駆け下りる音がしたので僕は諦めて帰ったのかと思い部屋に戻ったときだった。
カーテンが閉め切ったままベランダの窓ガラスが急に割れ、冷気が部屋中に流れ込んできた。僕は何があったのかと思い、割れたガラス片に気を付けながらスリッパを履いたままカーテンを開けた。外を見下すとあいつがそんな僕を見上げていた。
「やっと顔出したな。このクソ野郎が、ゆかりちゃんの事ちゃんとしろ。逃げんな。向かい合え」
雪が深々と降る中、傘も差さずに立ち去る。数歩、歩くと急に振り返り「ガラス代は後で請求しろよ」と捨て台詞を吐いた。
僕の足元に濡れた石が転がっていた。
あの馬鹿がっ、こんなに寒い日に顔を見たいそれだけの理由で人の家のガラスを投石で割るか。こんなに寒くちゃ家に居られないし、ガラス屋もこんなに雪が降っていたらきっとすぐには来てくれまい。それにもう密室でないこの部屋はライオンの来襲から身を護ることができない。アホ野郎。
僕はスエットから普段着に着替えると、中華包丁をバックに仕舞い出かける準備をした。新たな住居が必要だ。ライオンを待ち構える事が出来、他人に被害を蒙らない場所に。


細心の注意を払いながら、家を出ると。目の前に座り込んでいるゆかりを見つける。ヤバイ、すっかり忘れていた。一番厄介で一番大事にしたい人間に何故こうも最初に逢うんだ。
ゆかりは僕を見つけると急に泣き出し、その泣き方もとても20歳とは思えない幼稚的な泣き方で両手をだらりと下げたまま肩で息をして涙を垂れ流していた。それも尋常じゃない大声を上げながら。
「直くんが死んじゃったと思ったぁ」
「なんで俺が死ぬんだよ。さっきだって扉越しにだけど話していただろ」
「それは幽霊だと思ったぁ、寒いから死蝋化して真っ白い直くんが転がっていると思っていたぁ」
「アホ」
泣いている内に逃げようかと思ったが、ゆかりの声に近所や隣室の住人が何事かと呼び出してきてしまったので逃げるに逃げられず、僕はゆかりの背中を撫でて、さっきの口からでまかせとは違う本心での「大丈夫」を小さく連呼した。
数分後、ゆかりは泣き疲れて涙が止まり、ひっくひっくとしゃっくりのような声を出した。
ゆかりがいるとどうしてもライオンの脅威を忘れてしまう僕がいる。それはとても危ない事だから何度も自分自身に注意を促しているのだが、どうしても安心感が身体中に溢れて気が抜けてしまう。ライオンとは違った意味で僕の天敵だ。
ここに留まっていてもライオンがいつ来るか分からない。かといってゆかりをこのまま一人してはおけない、僕はゆかりに立てる? と訊ねるとゆかりは小さく頷くので僕は手をとってゆかりのBMWに向かって歩く。
涙は止まったものまだ情緒不安定気味のゆかりに運転させるのは危険を感じたので僕が運転席に座った。これにはこの車の目的地を僕自身が決めることも出来るというメリットも含まれている。
目的地も決めぬまま車を走らせて数キロ。ゆかりの携帯が鳴る。ゆかりはごめんと小さく言って携帯に出る。今まで泣いていたとは思えないほど凛とした表情になり、口調も変わる「はい、そうですね」「えぇ、それは来月の末までには提出できます」「そうなんですか。じゃあいつもの教授のポストに入れておきますね」「はい、ありがとうございます失礼します」パタン。携帯を閉じる。
「誰からだったの?」
「ゼミの教授。発表の論文の出来を聞きたかったみたい」妙に笑顔
「そう」
ゆかりはいつもそんな感じで、僕以外の前では本当に大人の女を演じていてゆかりに会ったどの人もそんな印象を喋りその後にいつもの文句で「何故、君なんか付き合っているの?」と不躾な質問をしてくる。僕自身が知りたい。なんで僕に?僕と?


ファミレスでゆかりはいつもマカロニグラタンを頼む。何気なく気になっていた事を聞いてみる。「なんでマカロニグラタンばっかり頼むの?」「ふ、ふぇ? あのね………」水をぐいっと飲むと紙ナプキンで口を拭き、息を整えて話す。「昔はね、このマカロニが大きっらいだったの。あの失敗したスパゲティーみたいな食感と無味な味がダメだったんだ。まぁ、マカロニ食べれなくても生きていけると気にしてなかったんだけどさ。ある日こう思ったの。例えばよ、例えば、直くんが悪の組織に捕まるとするわよね」「悪の組織って、何?」「例え話。if、イフの話」「うん。例え話ね、それで?」「もちろん、私は助けに行くんだどさ」胸を張りゆかりは堂々と言う。こいつには敵わない。「その時にだよ、その悪の組織のリーダーが偶々、私が突入した時に偶然食事中だったとする。そんな時間にお邪魔する私は失礼だけど、そんなの相手の都合とか分からないじゃない。アポとかとって突撃するなんてナンセンスだし。会って「お食事中でしたか、それじゃあ私一旦退散します。2時間後また伺います」なんて言える訳ないし、それを悪の組織も承諾しないでしょ。つまりは、お食事を共にしなければいけない状態になると思うの」「なんでそうなるんだよ。それに当初の目的である俺の救出忘れてない?」「ここからが大事なの!直くんが敵の手中にあるのよ。私の一挙一動に直くんの運命がかっているのよ。粗相なんて出来ないじゃない」「まるで、結婚の承諾を得に彼女の両親に会う彼氏みたいだね」「そうそう、私の気持ちはそれい近いものよ。同じ卓に着いたとき、もしその日のメニューがマカロニグラタンだったらどうする?「マカロニ嫌いなんで、有り合わせの物でチャーハンでも作ってください」なんて言って、そのリーダーがマカロニ大好きだったら大激怒じゃない。ネゴシエート失敗。人質の直くんの生命の危機」「だから?」「だから、そうなった時にマカロニを美味しそうに食べれるように私は日々マカロニ克服をしてるの」「じゃあ、毎度ファミレス来ると注文しているけど好きなわけじゃないのね」「まぁ、今は嫌いなものではなくなったよ」莞爾として笑う。
アホゆかり独特の理論だった。何故、悪の組織に僕が捕まるのだろう? その始まりから隕石が日本に落ちてその隕石に住み着いていたウィルスによって怪獣が生まれるくらいくらいの低確率な問題だ。あれ、円谷プロなら高確率の問題か? ともかく、捕まった僕を助けるために嫌いなマカロニを食べるゆかりには一応感謝しておこう。ありがたや、ありがたや。
「なんで合掌して私を拝んでいるの?」
「いや、お前がそんなに俺の事を考えているのとは思わなかったよ。お前から後光が見えてさ」
「そう」実感が湧かないような顔でゆかりは言った。