ゴメンナサイ

気持ちを切り替えて人生をまた歩む為に、メガネを新調した。
近所に出来た眼鏡市場に出かけて、18900円を払いnew眼鏡を手に入れる。
今までつけていた眼鏡よりも度数が一段階アップしたせいで、目が疲れる。
付けていると、目頭がジンジンして、眼精疲労がマックスまで高まった状態のようになる。
やはり、眼鏡なぞ少ない貯蓄を切り崩してまで変えるんじゃなかった。




一昨日から群馬は曇りで、そのお陰で随分とすごし易い気温が保たれている。
俺は激鬱だがな。
何かをしようにも、全てに×印が押されているようで、「やるだけ無駄ジャン」と身体と心が喧しい。
昔、読んだ本に最近の若者は『「負けた」教』に毒されていて、何をするにもやる前から失敗する事を恐れ、何もしない。そして、自分を哀れだと言う。と言っていた。
たぶん、俺もそれの信者だ。
何をするにもどうしてもネガティブな心が囁き、成功よりも失敗をイメージして終ってしまう。
終っている。
この前、電車に乗っていた時、前の席のカップルがこんな会話をしていた。
男「あぁ、それ観た事ある。ビートたけしがやってる番組だろ」女「そうそう、ビートたけしが数学の問題にチャレンジする……」男「昔見たよ、やっぱりビートたけしって頭いいよなぁ」女「そうだよねぇ。今もやってるよ」
何の変哲も無い会話である。特に面白い所も可笑しな所も無い。道を歩けば何処からとも無く聞こえそうな会話。
しかし、俺はその会話を聞いた時、深く絶望した。自分の足元が泥になったような感覚にさえ陥った。
その理由は、『俺はどんなに努力してもきっとそのような会話など出来るはずが無い』と言う極致に至ったからだ。他人からすれば妄想や強迫概念の一種だと片付けられてしまうこの気持ちは、当の本人からすれば、根拠も理由も無くただそう感じた事が怖いのだ。理由があれば否定できる。根拠があればそれを崩すなり、打ち破ればいい。ただそう思った事への恐怖は半端無い、通り魔に刺されるような理不尽さだ。その暴力的な押し付けは俺の心を鷲掴みにして離そうとしない。ただ頭に繰り返されるものは『シアワセニナレナイ』という言葉だけ。
俺はカップルが降りた電車内で深く沈んだ。足元に広がる仮想の沼に足を取られて歩く事も立つ事もできない。
きっとみんな幸せになれる、客観的に見れば大小はあろうとも。きっと笑える。
ただ俺のみ、その世界には入ることは許されず淵の外で見えない誰かに懺悔するのだ。言葉に出来ない思いを口にして。