紀子の食卓

あらすじ:田舎に住む女子高生「紀子」は、何も無い田舎に嫌気が差して上京したいと両親に告げたが父親からの猛反発を買い突如家出を決行する。
スーツケースを引きずりなら一人夜の銀座を歩く紀子。常連になっていたネット掲示板「廃墟.net」で知り合った「上野駅54」と上野駅で出会った紀子はレンタル家族というサービスに引きずり込まれていく。
予告編↓

感想:
監督園子温は、17歳の時に童貞を捨てる為にギター一本持って上京し深夜の駅前で弾き語りをしていれば逆ナンされるだろうと思って声が掛かる事を待っていた所、女性に道を尋ねられ、その女性は自分に好意があると勘違いした園青年は女性とホテルにしけこむ。念願の脱童貞と喜んでいた所、女性は手に持っていたバックから大きな枝きりバサミを取り出し「私と一緒に死んで欲しい」と心中を求められ。童貞のまま死ねない園青年は女性を説得し、女性は「ここで私と死ぬか、私の旦那のフリをして実家に一緒に帰るのどっちか選んで」と迫ってきたので。女性の実家に一緒に出向き、女性の旦那のフリをして生活をした過去を持っている。なんだかんだで女性から解放された園青年は帰る途中の映画館で時計仕掛けのオレンジを観て「そうだ、俺は映画監督になろう」と決意した。
古谷実の中期のギャグ漫画みたいな話だが本当の事で、そんな奇妙奇天烈な過去を持つ監督が作った映画なんだから、これまた奇妙奇天烈な映画となっている。(そもそも園子温作品は総じて奇妙奇天烈な映画である)
この『紀子の食卓』は、前作『自殺サークル』の前日譚として作られている。もっと詳しく言うと、自殺サークルを製作した後にノベライズの依頼を受けた監督が「好きに書いていいよ」という許しを得て、好き勝手に書いた自殺サークルの小説がこの作品の元になっている。しかしながら、『紀子の食卓』は『自殺サークル』を観なくては理解できないような作りにはなっておらず、この作品単体で完結しているので自殺サークル未見の方も安心して観られる。

上野駅のコインロッカーで生まれた上野駅54こと久美子によって、レンタル家族を生業にしていく紀子。名前をミツコに変え消費者の応じるがままのキャラクターを演じて行き次第に自分を見失う。一方、紀子が消えた家族では、妹のユカは紀子が消えた事による父親の行動をシュミレーションした小説をノートに書き続けながら、消えた姉とのコンタクトを取ろうとネットの海を探り、姉の存在を確認すると紀子と同じように東京へと蒸発するのだった。二人の娘を失った父親徹三は、手がかりを探る為に二人の私物を徹底的に浚う。そこでユカが書いた父親の行動をシュミレーションしたノートを見つけ、ユカの思い描いた父親像よりも自分は決意も行動も遅かった事に自身を呪い、二人の行き先であろう『自殺クラブ』という組織を調べ始める。仕事を辞めて二人の捜査に入れ込む徹三の姿に妻は精神を崩し自殺してしまう。一人になった徹三は東京へと向かい『自殺クラブ』とコンタクトをとる。
徹三と対面した紀子とユカのいる組織の代表は、徹三に「『自殺クラブ』なんて存在しない。現代社会はとても過酷で父や母や夫や子供を演じるには人々は疲れ果てて表裏を演じるには人々はしっくりいきません。ここでは全てがオープンなのです。むしろ虚構を突っ切る事によって全面的に自分を感じるのです」と代表者は徹三を説き伏せてしまう。
ホテルに戻った徹三は二人の娘を取り戻すべく、旧友の記者のチカラを借りて紀子とユカ、そして久美子をレンタル家族として発注してもらう事にする。
東京で家族が住んだ家に似た家を探し、家具を二人が家出した当時と同じ状態に配置して徹三はクローゼットの中に隠れ、三人の”帰宅”を待つ。依頼主である旧友は久美子を買い物に行かせると紀子とユカの残った居間に徹三を呼ぶのだが。徹三を見た紀子の第一声は「このおじさん誰?」であった。あまりの状況に困惑し身を縮めるユカ。徹三に怯える紀子。娘達の行動に言葉を失った徹三は、妻が自殺に使ったナイフを振りかざすのだった。
買い物に出た久美子は、あの部屋に徹三が現れる事を予感していた。過去に成長した自分の前に現れた両親のリアリティのない言葉に絶望した久美子は、紀子の家族の絆を徹三の思いの強さを測るためにあえて家を出ていた。仲間に教えられた、「誰かが社会の中で弱い役割を演じないと社会は成り立たない。誰もがライオンになろうとしたら崩壊してしまう。ウサギが必要なんだ」という言葉を思い出しながら。レンタル家族とは、ライオンにしかなれない人間やライオンになりたい人間の元に出向き、ウサギを演じる事だと。そしてソレは時に自分の死を以ってウサギを演じなければいけないと。
買い物を終えた久美子が、家に戻ると記者の旧友に邪魔をされる。不意の攻撃に玄関で頭を打ち付けた久美子は空に浮かぶ月をみて気絶するのだった。
そこに登場する組織の黒服(カイジの黒服みたいな人達)彼らはナイフを持って暴れる徹三を取り押さえようとするのだが、徹三によって逆に刺し殺されてしまう。ユカはただ怯え続け、紀子は庭に降る雪とみかんちゃんの幻覚から彼女との過去を思い出していた。
血まみれの居間に現れた久美子は、母の役割を演じ続ける。料理の準備に取り掛かるフリをして徹三に一家心中しようとしたでしょと心を見透かそうとする。ナイフを握り合う徹三と久美子。ユカの嗚咽交じりの説得によって心中よりもレンタル家族の延長を決める。(ここの吉高凄い)
一家団欒の食事風景。
食事を終えた家族は各々の床につく。
早朝、ユカは紀子のコートを着て一人家を抜け出す。

もう後半の居間のシーン全ての役者の演技が凄すぎて、見ているこっちが怖くなった。
一家団欒ですき焼きのシーンや紀子が組織に洗脳されたみたいな状態になるシーンは、『愛のむきだし』でも同じようなモノがあったので、なんというか既視感があった。というか、監督は否定しているけど園子温の自伝過ぎる。著書を読むと父親が随分偏屈な人だったらしく家族の形というものが昔からよく理解できなかった的な事を書いていて。そのトラウマが一家団欒の和やかな食事風景と刃物ととして表現されている気がする。紀子の上京も園監督の上京話と同じようだし、組織というのも、監督自身がいろんな新興宗教を取材・潜入してきた結果のように思える。
自殺サークルとは何だったのかという問いには、映画の『自殺サークル』では実存主義の話をして『勝手に生きろ』と突き放して終わったけど。紀子の食卓では、強者になれない人間の為に弱者を演じる集団みたいなモンだと勝手に解釈した。「人は死を前にした時こそ一番生を感じる」とか誰かが言っていたけど、そんな感じで、上野駅で54人の女子高生が飛び込み自殺することによって、ソレを観た人間や知った人間に自分の生を実感させたかったって事ですかい。
バカなんてよく分からないですけど。


面白かったけど、この作品も人には勧められない。
園子温作品は大抵、人に勧められないもんばっか!!