ゴッド・ブレス・アメリカ

あらすじ:隣人の騒音とテレビから流れる低俗な番組にストレスを高めていた主人公フランクは、ある日自分に恋心を抱いていると思っていた同僚からセクハラで訴えら仕事を首になる。不幸は重なり医者から脳に腫瘍が見つかり余命は幾ばくもないと告げられる。自暴自棄になったフランクはテレビで我侭を叫び続けるセレブを殺そうと出かけるのだが、そこには饒舌で毒舌な少女ロキシーがいた。
予告編↓

感想:
「自殺するってのは、間違った人間を殺す事と同じだわ」

昔、音楽家菊地成孔さんがラジオでラティーノ文化について語っていて、ラティーノ文化というのは他殺的な文化で日本文化ってのは自殺的な文化だと語っていた。それを聞いて、なんとなく*1、何かトラブルが起きた時にその問題を自分の中に見るのが日本人の本質で、トラブルの原因を自分以外の誰かに見るのが欧米的だと思った。
よくある。自分がおかしいのか、それとも世界がおかしいのか。って奴だ。

この映画は、それを最初に映し出す。良識を失ったTVに常識を見失った視聴者。全ての行動原理が損得で割り切られた資本主義の末路のような世界で主人公フランクはTVを見る。いや、意識的に見ているのではない、隣の家の騒音をかき消す為に現実から逃避する為にテレビを見るのだ。しかし、そこに映るのは、現実の延長線上であるTVショー。お釈迦様の手の平ってわけだ。*2
耐え続けた主人公フランクは仕事をクビにされ医者から死亡宣告を受け自殺を決意する。クローゼットに隠していた拳銃を手に取り自分の口に突っ込む。引き金に指をかける。
そこでTVに映るセレブの娘が目に入る。自分のバースデイパーティで我侭を叫びぶクロエの姿に現代の姿を移し見たのか、自己中心的に生きるその姿こそが世界の渡り方と気づいたのか、フランクは隣人の車を盗みクロエの通う学校へと走らせる。
クロエを車に監禁すると給油口に布の詰め火をつける。アクション映画のワンシーンのように決めるフランクだが、火のついた布は給油口から零れ落ち、失敗。フランクは泣き叫ぶクロエの顔面に銃弾をぶち込む。
その一部始終を眺めていたロキシーは彼の姿に感動し行動を共にする。
クロエを殺したフランクは自分の目的を達成し自殺しようとするが、ロキシーは「この世には死んだ方がいい人間がたくさんいる。自殺するのは間違った人間を殺す事と同じだ」と自分勝手に生きる死んだ方がいい人間の殺す旅を提案する。

身勝手な人間を殺し続ける二人に、事件がおきる。フランクの脳腫瘍は間違いで死亡宣告が取り消されたのだ。そして、ロキシーの語る悲惨な家族構成は全くの嘘で、ロキシーの両親は彼女の安否を心配しTVで無事な帰宅を案じていた。
変化を前に仲違いをする二人。
フランクは一人、音痴な青年を馬鹿にするオーディション番組を終わらせる為にテレビ局に向かう。


劇中で何度も描かれているけど、フランクとロキシーは正義の味方なんかじゃなくて、この映画に出てくる「身勝手な死んだ方がいい人間」と同じで、人を殺している分彼らよりも下の人間である。映画館で騒ぐ若者は悪だが、彼らが言った「(劇場では)帽子を取れ」はマナーとしては正解である。結局、フランクもロキシーも彼らと同じ身勝手な人間なのだ。TVに映る音痴な青年を勝手に「大勢に晒されて馬鹿にされる哀れな人間」だと思い込んで番組を襲撃するフランクの姿なんてその最たるものだ。実際の青年は大勢の前で歌える事を喜んでいた。誰になんと言われようとも。
人の真意はたぶん接する事でしか分かりえないと思う。TVから流れる情報だけを頼りに理解しても真の理解は得られず、なんらかの誤解や誤訳をしてしまう。そもそも正解なんて人の数だけ存在するのだ。どれか一つを正しく思うのは、ソレがすでに間違いなのだ。
馬鹿だけが残った近未来を題材にした『26世紀青年』で主人公は、大勢の人間の前で言った。
「みんな本を読め、映画を観て考えろ。クールになって偉大なことをしよう」
それがこの映画にも実にマッチした。
物事の本質を読め。
(26世紀青年は偉大)

*1:個人的に思った事なので正誤は別として

*2:TV番組の低俗化は日本でも散々騒がれているけど、どの国も同じって訳だね。あぁ、北の国は違ったわ