君島直樹は戦慄 4


「ちょっとトイレに」
と言って、席を立った僕はゆかりにばれない様にトイレの横にある厨房を通り、裏口から店を出た。
雪が止んでいた。
人気の無い路地裏に出た僕は、ポケットからタバコ取り出そうとポケットに手を伸ばすがライターしか見当たらない。
ニコチン中毒か、ゆかりと別れて一人になった不安からか、ストレスが増加する。
でも、この不安の中にゆかりといたときとは違う安心感が含まれている事が分かる。それはきっと、今ライオンが襲ってきても僕以外が傷つくことがないからだ。
何処かの子供が作ったと思われる50センチくらいの歪な雪だるまが僕を見る。僕は軽いステップを踏むとその雪だるまの頭目掛けて一蹴。砕ける頭部。
これでやっと一人だ。



歩き疲れて、誰もいない公園でベンチに座って冬の透き通った空を見上げていると、突然背後で女性の悲鳴。
「助けて、いや、止めて」
振り返ると痩せこけた30代のくらいの女性が髪をかき乱して僕に向かい叫んでいた。発言の意味が分からなく、何が?と言いながらゆっくり立ち上がると女性の後ろに無精髭の男が立っていた。その男も女同様痩せこけていて髪の毛がぼさぼさだった。ただ違う点は男の手には柳刃包丁が握られていたことだった。
咄嗟に理解できた。きっとライオンの登場なのだろうと。もちろん男がそう自己紹介したわけではないし、どう見てもサバンナにいるライオンには見えなかったが、俺の本能が男をライオンの化身だと理解させた。
足元から冷気が原因でない震えが走る。恐怖?それもある。でも、それ以上に湧き上がるのは歓喜だ。想いを告げずにいた初恋の人に再会したような喜び。
僕はにやつく口元を押さえながら手元にあると思われた背嚢を探した。しかし、見当たらない。
そうだ、中華包丁の入ったバックはあのファミレスに……。
気付いた瞬間に背中に雪を入れたように首筋から腰にかけて寒気が走る。
それと同時に、サッザッザザっと雪を踏みつけ駆け寄る足音。目線を上げた先には、10メートル先にいたはずの男が俺の目の前まで来ていた。その目はライオンというよりも兎に近く真っ赤に充血していた。男は振り上げた包丁を俺目掛けて一閃。
防御した右腕が生暖かくなり、降り積もった雪に赤い染みを作る。
《殺される》
そう、実感できたのは腕の痛みと同時だった。死への恐怖は生を実感させることはホラー映画を観たりジェットコースターに乗れば分かるだろう。正しく今の僕は生を実感した。そして目の前から迫り来る死を拒絶したいと真に願った。臨淵羨魚の四字熟語もあるようにただ願っていても目の前の脅威から逃れる事は出来ない。僕は咄嗟に身を翻して駆け出した。なんて書くとそれは素早い身のこなしのように思えるかもしれないが、実際は雪に足を取られたままの不安定な走行でなんともだらしないものだった。
腕の予想を上回る出血に驚きながらも公園の端に設置されたトイレに逃げ込んだ。個室に逃げ込み鍵をかける。紙質の悪いペラペラのトイレットペーパーで上着を脱ぎ腕の血を拭くが、拭けば拭くだけ溢れ出した。僕の体を流れる血小板もっと頑張って早く瘡蓋作れって。
アクション映画然り、ホラー映画然りで、トイレに逃げ込んだ者に与えられるモノは一瞬の安堵とそれを懐かしむ暇すら与えられない恐怖だ。ようはシナリオの御定番と照らし合わせれば、僕のトイレに逃げ込む選択は最悪だ。周囲の状況を把握できない、中途半端な密室。あの男が今扉の前にいるのか、それともあの女を追って何処かに去ってしまったのか分からない。何も反応が無いと気を抜いたら、殺人鬼が隣の個室からよじ登って登場。なんて、使い古された手法が待っているかもしれない。
とにかく今は待ちだ。下手に動いて奴に鉢合わせる事は避けたい。
僕は天井を監視しながら汚物や泥に汚れた洋式便器に座った。



気を落ち着かせると当たり前の事を思いつく。
ポケットに入ってる携帯を使い警察に通報すればいいのだ。
携帯を開き、「110」と入力する。これで通話ボタンを押すだけで自分の安全は保障される。この突然降りかかった災難からおさらばできる。警察がこの公園まで来れば後は事情を説明して医者まで連れて行ってもらって負傷した腕の止血と応急処置をしてもらい、ゆかりの待つファミレスに戻れるのだ。
親指を少し動かすだけで全てが解決するはずなのに。僕の体はそれを拒否する。そして、僕の脳は、僕の心にこう言い始める。
「確かにそうすればお前の安全が回復する。しかし、それが正解か? あの気の狂ったような男がもし警察に捕まらなかったらどうだ。奴は警察を呼んだお前に憎しみを抱くだろう。奴はお前を命懸けでお前を探し出すぞ。だって、お前はその男を社会的に犯罪者にしたのだから。少年漫画で言い尽くされているように”願いは叶う。”奴はお前を探し出すだろう。お前を最初に狙ってくれたら良いよな。でも、リベンジャーはもっとも効果的な仕返しをするはずさ。例えば、ライオンのようにお前の周囲を殺すとか……。ゆかりはお前のせいで死ぬんだ。何も悪い事をしないのに、来月まで生きれるかな?論文の発表があるとか言ってたよな。可愛そうに。無駄な努力になっちまう」
「じゃあ、どうすればいいんだよ。俺が奴の前に出て奴に殺されればいいのか?」
答えはない。まるで答えを知っているだろ?とでも言いたげに周囲に沈黙が漂う。